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京都の和菓子

幕末の文久二年(1862)に清川八郎の提案により、幕府が上洛する十四代徳川家茂の警護の為に集めた浪士隊を前身としています。翌年上洛した浪士隊は結果分裂し、京都に残った一部が京都守護職松平容保のお預かりとする形で結成されました。その後芹沢一派等の粛清を経て局長近藤勇、副長土方歳三の体制で落ち着き、主に京都の治安を守る為の警察部隊でした。
彼らを一躍有名にしたのが「池田屋事件」でした。過激派浪士が都に火をかけ、その混乱に乗じて天皇を長州に拉致するという計画を企てていました。それを察知した近藤らは、木屋町三条の池田屋を襲撃、7人を斬殺、23人を捕縛しました。彼らの活躍により、京の都が火の海にならずにすんだのです。
明治元年「鳥羽・伏見の戦い」において幕府軍に参加して戦いましたが敗北し、江戸に逃れた後、各地を転戦しましたが、同年四月近藤は板橋で斬首、土方も明治二年函館の五稜郭郊外での戦闘で戦死しました。


幕末の文久3年(1863年)春、14代将軍家茂上洛にあたりその警護の為に上洛した浪士達は、ここ洛西壬生村に宿所を求めましたが、間もなく江戸に呼び戻されることになりました。しかしその中で当八木家を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名は浪士隊から分かれて京に残り、文久3年3月16日八木家右門柱に、松平肥後守御領新選組宿という新しい表札を掲げ、ここに新選組が誕生したのです。
当時、当家は11代八木源之烝應迅と申しました。その後しだいに隊士も増え当家では賄いきれず前川家や南部家にも宿所を当てていました。
当家奥座敷は新選組三大内部抗争の一つ芹澤鴨暗殺の場で、文久3年9月18日どしゃ降りの深夜芹澤鴨、平山五郎ら4人が斬殺されました。現存する刀傷の一部がその凄惨さを物語っています。
こうして近藤が実権をにぎってから隊規も厳しくなり、又池田屋事件など新選組の最盛期を築きましたが、慶應元年(1865年)夏、壬生が手狭になってきたのを理由に西本願寺の太鼓番屋に屯所を移しました。その後、鳥羽伏見の戦いで敗れるまで壬生を洋式調練の場所にするなどして江戸に下る最後まで深い繋がりがありました。
壬生に生まれ幕末京都の治安を守った新選組。あしかけ3年の新選組壬生屯所時代。これが真の新選組のすがたではないでしょうか。

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